投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助動画検索<OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ ] [ 検索 ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR] アルバイト高校生 不動産投資 岐阜の求人・転職  化粧品通販
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

全42件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  |  《前のページ |  次のページ》 

部垂地名について

 投稿者:部垂義元  投稿日:2001年 6月19日(火)22時45分26秒
  「部垂」地名について、ご存じよりの方に。
ヘダレとよむか、ヘタレと読むか、
ヘダレは語源として「崖地」の意味があるとの説も聞く。
全国に類例はありますか。
秋田県大館市に部垂町(ヘダレまち)があります。
これは、茨城県大宮町(部垂村・部垂城)の移転地名です。
ヘタレの語を忌避して大宮村に改名したとのことですが。
ヘダレが崖地の意味だとすると、ヘタレの語の忌避改名説が
誤伝ということにもなる。
各位のご解釈を教示くだされば幸甚です。よろしく。
 


野史呼び名辞典案内

 投稿者:立田浩之  投稿日:2001年 4月 3日(火)00時01分19秒
  東北の皆さん。西日本で、昔の俘囚移配先で、別所・院内・三所から現在までの民衆史を研究しています。方法は地名です。地名の元になる人的呼び名を、歴史用語・方言・通称・俗称・隠語など
から35000語収録しました。引用文献はおよそ数百。素人(私自身がそうですから)にも分るように1次資料は使っていません。地名から地域の歴史を掘り起こし、呼び名で仮説をたて、実地調査などで検証する方法を私たちの研究会はとっています。この呼び名辞典で古文書や資料のない地域の歴史を再現してみませんか。筆者、野史研究会・歴史民俗研究会所属。A5版1013ページ。自費出版で10500円。ホームページに案内とサンプルがあります。専門は流通システム論。

http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/

 

江戸時代の町・人・暮し

 投稿者:鷲谷豊  投稿日:2001年 3月28日(水)21時28分19秒
  平成13年3月20日秋田市文化会館で、郷土秋田を考える歴史講演会が開催された。
演題は「江戸時代の町・人・暮し」、講師は江戸東京博物館館長の竹内誠氏であった。
内容は始めに、離縁状「三下り半」のこと、江戸時代の女性もなかなかで男がそでにされるといった事もあったということ。ついで「根津門前町の貸長屋の図」から、住民生活を推察する。向う三軒両隣・の長屋共同体・江戸端会議。手習いと稽古事、教育ママはこの時代にも。庶民の識字率の高さ。読み物の刊行「ベストセラー・黄草紙」。江戸市中に人気の風刺本の作者はレッキとした武士が多々ありと、秋田藩江戸留守居役平沢平格もそのの一人であるという。
江戸時代庶民の生活、あらためて視点を変えて見直したい。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

遠賀川系土器と擦紋土器

 投稿者:鷲谷豊  投稿日:2001年 3月19日(月)21時44分4秒
  平成12年度秋田県埋蔵文化財調査報告会は、3月3〜4日に開催された。(最新情報参照)

秋田県で平成12年度の調査個所は44個所、会場で配布された報告書には28個所掲載。スライドによる個別報告は9個所。ほか概要でのスライド説明があった。
注目されるのは、琴丘町狐森遺跡から出土の北海道系擦紋土器であり、秋田県内での南限が更新されたことになる。また山本町森岳東飛塚遺跡と井川町越雄遺跡から九州遠賀川系土器が出土した報告があり、日本海流に乗った長距離伝播かと興味深い。川辺町井戸尻岱遺跡の弥生式土器というのも、秋田県内としては稀少なのではないだろうか。また森吉町の向様田遺跡では、岩偶・土偶・岩版と多様な展示となった。                
国指定史跡となる鷹巣町の伊勢堂岱遺跡の環状列石は歴年の調査で、壮大な規模になったことは注目されてよい。鷹巣町教育委員会の調査が評価される。
日本海沿岸自動車道関係の調査では、平安時代の集落遺跡の発見が目立ってきていると感じられた。中世の城館遺跡については青森県の発掘調査例に比して秋田県は事例が殆ど無いといえるような気がする。
(平成12年度秋田県埋蔵文化財調査報告書については、秋田県埋蔵文化財センター、0187ー69ー3331へ紹介の事)
以上

 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

建武・出羽・葉室光顕など

 投稿者:鷲谷豊  投稿日:2000年12月19日(火)23時50分27秒
  建武新政期の出羽国支配についての、塚本憲児氏の提起を読ませてもらいました。
少し駄弁を申し上げます。

1) 陸奥国府の状況がわかるのは、岩手中世文書(南部家文書)によるところが大きいでしょう。
出羽国での状況は、当時の領主層が、近世大名として近代に至るまでまで、出羽国内に存続したなかったことにある。出羽守葉室の発した国宣、御教書などが存在しないものであろうか。
また後醍醐朝廷の公家文書などの中に見出せないか。その道の研究者に期待したい。   
2)陸奥守、出羽守は一見、同等の権限と機能と考えるが、北畠と葉室の場合は、親王を抱えた方の権限が先に立つであろう。また鎮守将軍に北畠が追加任命された段階では、そのなかに包括されたといってよいのでないか。?
3)葉室光顕の死についてどう考えるか、
一般にいう「1336年5月21日任国に於て誅さる」と尊卑分脈「建武ニ冬於出羽国斬首」とどちらをとりますでしょう。尊卑分脈の説をとらないのは、どういう分析によるのか。どなたかにお尋ねしてみたい。1334年の説になれば、出羽国府の存在もないわけですので、ちょっと
面白い発想では、ありませんか?。???
もう一つ、葉室光顕は、任国で「誅」される、とある。誅とは敵側から殺されたという字句の意味を形成するであろうか。 「 誅」とは、軍令違反でより権限の強いところから「誅」殺されたとの意味が強いのである。では「誅」とは、鎮守将軍北畠との確執、反対行動によるの味方討ちなのでないだろうか。??奇想天外に思いますが、これも反証の学習テーマにどうぞ。



 

建武政府の出羽国支配について

 投稿者:塚本憲児  投稿日:2000年12月15日(金)16時52分22秒
   はじめまして、私は東北学院大学史学科3年の塚本憲児です。専攻は日本中世史で東北地方を研究対象としていますが、その中でも日本海側の歴史に興味を持っています。最近、私の中で問題とされている点は建武政権期における出羽国の状況であります。その点について少しばかり以下にあらわしました。
 元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇による建武政府が樹立しました。後醍醐天皇は奥羽を支配下におさめるために北畠顕家を陸奥守に、葉室光顕を出羽守に任命し、それぞれ両国の国府に派遣させました。北畠顕家による陸奥国支配は強烈なものでした。彼は後醍醐天皇による天皇親政に反して陸奥国府に評定所や引付・侍所などを設置し、各地には郡奉行所を設置させ、国府から郡奉行を任命・派遣させて支配を強化させました。顕家がここまで陸奥国の支配構造をつくりあげたのは鎌倉にて幕府再興を企てようとする足利尊氏に対抗するためであるといわれていますが、その顕家による陸奥国の支配範囲は元弘3年(1333)から顕家が死去する延文元年(1338)にかけてほぼ全域に及んでいることが現存する文書で知ることができます。
 それでは、出羽国の場合はどうなっていたのかということなのですが、先にも述べましたとおり、出羽守には葉室光顕が任命されました。しかし、現存する文書が8点しかないことと出羽国屋代庄の地頭職補任に後醍醐天皇から岩松経家を通して行なわれていることから陸奥国ほどの権力はなかったと見られています。ここで問題となるのは光顕が顕家と同様の地位に任命されているのに、なぜ、陸奥国よりも権力構造が明らかにされていないのかということです。これについて当時の出羽国の状況から探ってみたいと思います。
 葉室光顕は出羽守のほかに秋田城介にも任命されました。秋田城介は秋田城の管理・出羽国北半の支配が主な職権であるのですが、建武政府が成立した当時、秋田城には旧幕府軍が政府に反抗していました。この旧幕府軍の頭領は鎌倉時代において秋田城介を世襲してきた安達氏の者(高経か)とされているので、旧幕府軍は出羽北半の領土を建武政府に渡さないために必死に抵抗していたものと思われます。もちろん、秋田城介に任命された光顕はこの旧幕府軍をほっとくわけにはいかず、旧幕府軍を討伐するために出兵したと考えられます。両者の戦いの結果は曽我氏の文書に旧幕府軍が津軽に攻めるうわさが記されていることと、公卿補任に建武3年(1336)光顕が任国にて殺害されると記されていることから、旧幕府軍が勝利をおさめたと見ることができます。
 以上のようなことから出羽国が陸奥国のような権力構造をつくることができなかったのは出羽国の北半に大きな勢力を持った反乱軍が存在しており、これを鎮圧するために光顕は出兵したが、なかなか鎮めることができなかったからである。そして、光顕の死は建武政府による出羽国支配の失敗の幕開けであるといえるのではなかろうか。
 今回は時間の都合によりここまでにしたいと思うのですが、もっと出羽国の状況について研究していきたいと思います。
 参考文献・・・「中世奥羽の世界」東京大学出版会
        「能代市史」古代中世1
        「論点あきた史」
 疑問・質問・その他いろいろありましたら、s9813249@tscc.tohoku-gakuin.ac.jpまで連絡お願いします。
 現住所 仙台市宮城野区五輪2丁目9−15ニュースカイマンションNO2 301号室
 
お得なプロバイダーとくとくBB

十狐城・長岡城の浅利氏関連

 投稿者:鷲谷豊  投稿日:2000年12月14日(木)22時19分40秒
  H12.12.10さきがけ紙「館跡を歩く」十狐城・長岡城の
記述の中の問題点。                  

1)獨鈷大日堂の再建については、浅利氏(則頼1522年)、塩谷氏(重綱1672年)
としたい。安東氏(師李1460年)については『大館花矢地方史』の記述を参考に『大館地方の歴史散歩』(拙書)にも記していますが、史料の根拠が希薄なので抹消訂正とします。     
2)浅利頼平の「八年ぶりに比内に進攻、十狐城と長岡城を奪還」とあるのは、大きな誤解です。『比内町史』の参考とのことであるが、比内町史のこの部の著者は『長崎旧記』の文脈からの解釈で記述したであろう。これは都合のよい解釈に過ぎる。浅利頼平は天正18年比内(大館城)へ
還住するが、津軽為信の斡旋を安東実李が受け入れて家臣として抱えることとしたのであり、頼平が攻めとったのではない。これは秋田安東氏の史料で確認できる。        
3)掲載された略図で、長岡城と比内町役場の位置が誤記ですので注意ください。国道、県道、JR花輪線に囲まれた南側の区域(三角部)の中に書き込まれるのが正しい位置です。            
ーーーーーーーー
以上参考に願います。
疑問の向きは掲示板にどうぞ、

 
お得なプロバイダーとくとくBB

以前の掲示板の内容

 投稿者:管理人  投稿日:2000年12月 9日(土)00時00分27秒
  以前の掲示板の内容については、以下をご参照ください。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3313/geobook.html

 
お得なプロバイダーとくとくBB

日付訂正

 投稿者:北羽歴史研究会  投稿日:2000年12月 8日(金)23時46分53秒
  秋田魁新報12月10日(日)の記事になります。  
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

十狐城と長岡城について

 投稿者:北羽歴史研究会  投稿日:2000年12月 8日(金)23時34分6秒
  12月12日(日)の秋田魁新報の日曜連載に「十狐城と長岡城」についての紹介が載るでしょう。比内浅利氏についても記述ある筈です。ごらんください。感想やご意見、別見解などありましたら、当欄に投稿くだされば、幸甚です。  
お得なプロバイダーとくとくBB

以上は、新着順31番目から40番目までの記事です。 1  2  3  4  5  |  《前のページ |  次のページ》 
/5 


[PR]